皆様の体験記を募集しております。投稿は患者会メールアドレスへお送りください。

わんさん(患者本人)/男性(35歳 2005年発症)

鹿児島に母親と2人暮らしの、男、35歳です。元々4人家族で2人の妹がいますが今は2人の妹は嫁いで私は母親の介護を受けております。在宅介護です。こちらに私が何故介護を受ける身になったのか、経緯を記したいと思います。長くなると思いますが最後まで読んでいただければ幸いです。
13年前になりますが九大病院に搬送され、1年間お世話になりました。初めに九大病院に入院し、退院するまでの経緯と退院してからの経緯、九大病院に入院していた間、私の病気の病名がはっきりわかりませんでしたが現在はそれらがわかった事の3点を主体に書きました。

初めの部分は私に記憶がなかった為、人(主に母親)から聞いた話を私なりにまとめました。
私が倒れたのは大学のゼミの最中でした。就職活動の途中だったと聞きます。倒れた際まわりの方々の良い対応により、九大病院に搬送され、入院し一命をとりとめました。
私の入院を聞いた家族が、鹿児島からかけつけてくれました。それから1年間、九大病院での入院生活が始まりました。
私は5週間程、ICUに入りました。強い麻酔をかけられ、生きていくための機能をほぼ消去しました。人工呼吸器を取り付ける為、気管切開をし、点滴により栄養をとりました。他人とのコミュニケーションは口パクか首を降るしか出来ませんでした。
九大病院の退院の条件が自発呼吸が出来ることです。漸くして自発呼吸ができるようになったら人工呼吸器の酸素濃度を下げました。
九大病院を退院した私は福岡から地元鹿児島まで帰らなければいけませんでした。
その道程、救急車を改造した介護タクシーで九州自動車道を走りました。道程、私にもしもの事がないよう、医師がつきっきりでした。鹿児島についた私は鹿児島大学病院に入院して、様子をみた後、地元の病院に転院しました(大勝病院)。そこの病院で主治医、リハビリ医(pt,ot,st)がつきました。私の治療のためのチームです。
地元の病院に転院した私は声も出せず、目も明るい暗いしかわからず記憶もほとんどない状態でした。当時、私はミトコンドリア脳筋症の疑いと診断され、医者に一生寝たきりだと言われました。しかし、母親はその判断は信じず、病院にほぼ毎日通い、看病してくれました。

私に人間としての機能を回復させるため、リハビリの先生方はあらゆる手を尽くしました。強いコーヒーの匂いをかがせて神経を敏感にさせたり方向の感覚を強くしたりしました。ボードゲームなどをやって指先、脳の神経を少しずつ回復させました。気管切開した喉は鹿児島の市立病院で手術でふさぎました(本来なら気管切開した穴は管を抜けば、自然と塞がると聞いたのですが自分は切開していた期間が長く、気管切開した部位が皮膚化してしまって手術でわざと傷をつけてふさぐという処置をしました)。大勝病院である程度、他人とのコミュニケーションがとれるようになり、力を示せるようになったら退院です。車椅子のままですが退院しました。
病院での生活になれ過ぎてしまった私は、家の中を車椅子では自由に行けない、当たり前のことに制約がかかりました。自宅には床の間が二間あったのでその内の一間を板間にし、介護用品などをおいて、私の部屋にしました。
大勝病院に入院時、ミトコンドリア脳筋症の疑いと診断された私ですが、主治医の先生が私の病気の病名を判明させる為、鹿児島大学病院へ入院して検査するようすすめました。
大学病院で私の腕の筋繊維と髄液を採取し、検体を金沢医科大の田中惠子教授に送り、検査しました。
結果は抗NMDAR抗体陽性の自己免疫性脳炎と診断されました。
以上の経緯を経て、最初に九大病院に入院してから、鹿大病院へ入院するまで脳に何らかの疾患があるとわかっていたのですが鹿大病院での検査入院の検査結果が出て私の病気の病名が判明いたしました。
九大病院に入院している間、私の様態の経過を欠かさず、みて下さったと聞きました。その結果、病気は完治はしていませんが倒れた13年前の自分と比べ、圧倒的に回復しました。

追記:九大病院に入院した当初、物も形が判断できない、文字や数字も判断できない能力でした。
現在は自宅で週に3日、リハビリを受けています。そのまわりの方々のお陰で、筋力も目を見張る程回復しました。今、立位できる事を目標にトレーニングしています。食事は普通食をとっています。また、本を並行して数冊読めるようになり(好きな本は、デール・カーネギーの人を動かすと道は開ける、ナポレオンヒルの思考は現実化する、稲盛和夫の生き方)、絵(チョークアートというのでオイルパステルとブラックボードを主に使う)を描くのが好きなので絵を描いています。最近、数学(主に微分積分学)の勉強を初めました。

ぽんぽこさん(患者本人)/女性(27歳 2016年発症)

2016年4月、社会人5年目に、 抗NMDA受容体脳炎を発病しました。
私は、医療機器メーカーで、大型医療機器の修理や点検、 据付を行う技術職をしていました。
実務経験3年以上で取れる【医用機器点検技術者】 の資格を取って、やっと一人前に仕事が出来るようになってきて、 仕事をすることが楽しくなってきた頃でした。
仕事は大変でしたが、プライベートでは、好きなものを買って、 友だちと遊んだり、旅行に行ったり、疲れたらマッサージに行ったりと、それなりに充実した毎日を過ごしていました。
しかし、2016年の1月頃から、仕事に行きたくない、何もしたくない、どこへも行きたくない、という、鬱のような症状がありました。
今思えば、病気になる前兆だったのかもしれません。
2016年の4月、金曜日に会社を無断欠勤しました。会社の方が、私の携帯に連絡をくれて、その日は、 風邪気味なので休ませて欲しいと言ったそうです。そして、日曜日の朝、裸足で外を徘徊しているところを警察に保護され、精神病院に措置入院しました。翌月曜日、また会社に来ないので、会社の方2人が、私のアパートへ行ってくれました。すると、部屋の鍵が開いており、ドアの前に会社のカバンが置いてあったそうです。部屋の中には誰もおらず、おかしいと思った会社の方は、警察に行って、私が精神病院に措置入院していることがわかったそうです。そして、両親に連絡してくださり、会社の方も一緒に病院に来てくださいました。
そこでは、若い女医さんが私の担当で、この症状は、精神疾患ではなさそうとの診断で、総合病院で全身の検査をした方が良いということになり、すぐに救急車で、救急病院へ転院しました。
意識障害、39℃を超える高熱、時々手足の痙攣、顔の不随意運動、刺激に対しての無反応。
神経内科の先生から、次のような説明があったそうです。『 脳のCTとMRI検査では、異常は見られなかった。全身のCT検査で、右卵巣に腫瘍が認められた。精神症状から意識障害に移行したことなどから、自己免疫性脳炎( 抗NMDA受容体脳炎)という病気を考えている。治療方法は腫瘍の切除と免疫療法(免疫グロブリン大量療法、ステロイドパルス療法)になる』
母が呼びかけると、その時、一度だけ名前が言えたそうです。
右の卵巣の全摘出、免疫グロブリン投与、ステロイドパルスなどの治療を行いながら、3ヶ月経過、そして、7月に意識が戻りました。
意識がなかったため、人工呼吸器管理をして、胃にチューブを入れて栄養を摂っていました。
意識が戻ってからは、人工呼吸器を外す練習とご飯を食べる練習をしました。ゼリーを食べる練習から始めて、お粥を食べられるようになり、普通の食事を食べられるようになりました。
意識が戻ってから大変だったことは、後遺症で幼児化、赤ちゃん返りしてしまい、ワガママな私になってしまったことです。両親に帰れと言ったり、父に噛み付いたり、看護師さんと喧嘩して、夜、母に謝りに来てと困らせたり、大変だったようです。私は何も覚えていませんが。これも一つの病気の症状だったようです。
その後、だいぶ体調も良くなり、11月にリハビリ病院に転院することができました。リハビリ病院では、入院しながら、作業療法、言語療法、理学療法、心理療法のリハビリをしていました。
2017年1月末に、薬の副作用で、体調を崩してしまい、大学病院に、1ヶ月間、転院して治療をしてもらいました。そして、再びリハビリ病院に戻り、1ヶ月ほどで退院することが出来ました。
2017年4月から現在(2018年1月)まで、リハビリ病院に通院しながら、作業療法、言語療法、心理療法、体育のリハビリを続けています。
後遺症の状態を確かめるテストを何度か受けていて、9月頃に受けた最後のテストでは、ほとんどが平均点以上取れていたので、もうすぐ仕事復帰も可能かと言われています。
26-28歳という、人生の中で一番大切な時に、病気になってしまったことは、とても残念で仕方ありません。ちょうど私と同い年の子たちは、仕事をバリバリして、結婚して、出産している子が多いのです。私も普通の子たちのように、楽しい20代を過ごしたかったなと思います。親に「なんで病気の身体に産んだの??」と、 酷いことを言ったこともあります。
しかし、病気になったことで、今まで知らなかった世界が見えたし、いいこともたくさんありました。また、新しい夢が出来ました。やってみたいことがあるのです。
なので、病気になったことは、今は後悔していません。むしろ、普通の人より貴重な経験をさせてもらったんだと思っています。
私が病気になったことは、絶対意味のあることなんだと自分に言い聞かせて、こんな私でも誰かの役に立てるかもしれないと思っています。
だから、この体験記も書きました。
患者会には、たくさんの同じ病気の人がいますが、病気になった本人が、体験記を書いていることが少ないので、私が体験記を書くことで、1人でも多くの人のためになることを願っています。
まだまだ、この病気のことを知らない人が多くて、誤解されて誤診されてしまい、苦しんでいる人がたくさんいると思います。そんな人たちのために、少しでも私の経験したことが役になってくれたら嬉しいです。
これから、患者会の活動にも少しずつ、 協力できたらいいなと思っています。

片岡美佐江さん(患者家族)/娘さん(38歳 2013年発症)

私の入院中の娘(38歳 2013年発症)は、大学病院での8か月の治療後、3年4か月ほど、療養型の病院で意識が戻るのを待っておりました。
しかし、療養型病院の治療体制には限界があるため、炎症反応が高く左腎臓に30㎝もの膿瘍が出来ていたのを放置されており、この7月29日に、以前、NMDAの治療をして頂きました大学病院へ救急搬送されました。
そして、8月1日には左腎臓全摘の緊急手術となりました。
周りの臓器に癒着をしており、大変危険な手術で5時間を要しましたが、お蔭様で手術は無事に成功いたしました。
その後もまだ、膿瘍が残存しており、再度小さな手術をしましたが、9月14日からは抗生剤の投与も中止となり炎症反応の経過を観察する状態にまで回復して参りました。
救急搬送されました時に30ありました炎症反応(CRP)が9月14日から抗生剤投与中止から2週間が経過しました9月2 9日には0.25まで下がりました。
そして、嬉しいことに、今まで追視や頷きなどがなかったのですが、8月25日頃から私や主治医の先生、 看護師さんの問いかけに少しずつ反応するようになってきたのです。
私がどんなに話しかけても一方通行でしたが、「おはよう」という問いかけにも、カニューレが入っておりますので、声はまだ出ませんが、「おはよう」とにこやかに笑って返してくれるのです。
皆さんのところもそんな状態から意識回復が確認出来るようになられたのでしょうが、私の娘は4年目で初めてこのような意識回復がみられましたので、本当に嬉しい限りです。
この病気で摘出しなくてもよい左腎臓を摘出してしまいましたが、神様があまりに可哀想だと娘の意識を戻して下さったのではないかと思っております

ニラミンさん(患者家族)/娘さん(19歳 2014年発症)

2014年1月末、 16歳の誕生日を目前にして娘は発病しました。
今から思うと、 12月に入った頃から少しずつおかしな行動があったように思います。
そして、激しい頭痛と高熱。嘔吐もありましたので、 胃腸風邪の診断 。
だんだんと娘の反応が鈍くなり、つじつまの合わないおかしな発言もでてきました。
次にインフルエンザと診断されましたが、ひきつけをおこし救急車を呼びました。
市民病院へと搬送されましたが、脳のCTに異常が診られないため一旦帰宅。
その時にはまだ自分の名前が言える状態ではありましたが、帰宅後から一睡もすることがなくなり、天井や壁を見てブツブツとつぶやいたり、徘徊をするようになりました。
急に歩けなくなったので、再び市民病院へ。
そこでやっと抗NMDA受容体脳炎の疑いがあるという事で入院。
翌日には大学病院へ転院となりましたが、私の事も分からなくなり、何度も痙攣をおこして、やがて眼は開いているものの意識はなくなりました。
大学病院ではすぐに卵巣奇形腫を取り出して、血漿交換、ステロイド、グロブリンと治療が開始されましたが、娘の状態は悪くなるばかりでした。
血漿交換の途中でひどい発作を起こしたようで気管を切開して人工呼吸器をつけました。
強い全身緊張と激しい不随運動、高熱、 大量の汗と唾液。
モニターがずっと異常な数値をエラー音と共に知らせました。
そんな状態でも娘は眠る事があまりなく、1週間か10日に1度深く眠る時がありました。
何度目かのステロイドとグロブリンの治療でやっと追視がはじまり、そこからは目覚ましい回復を見せ、6月の最初に無事に退院する事できました。
退院といっても、機能が全回復したわけではなかったので、そこから自宅でリハビリ生活となりました。
病気でダメージを受けた脳は記憶や知能、精神にも影響がでていました。
安定するまでに2年程かかったように感じます。
見た目は少しやせた高校生ですが、中身は小学生にも満たない。
そんな状態の娘を受入れてくれるようなところが見つからず、かといって高校に復学ができる段階でもなく、娘の居場所を見つけることには苦労しました。
やがて、無理やりにリハビリも兼ねて復学をして、親子で沢山辛い思いもしましたが、2017年3月に4年かかって高校を卒業しました。
2016年の夏ごろ、やっと発病前のような娘が帰ってきたように思いました。
娘はこの病気になった事で病院で働くことが夢となり、現在は言語聴覚士を目指して専門学校に通っています。
後遺症のようなものは少しあるようですが、生活に支障をきたすようなものではないようです。今後、 社会に出た時にそれがどう影響してくるのか心配になりますが、 今は毎日をいきいきと生きる娘を見ることでほっとしています。

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